高槻少女殺害事件 逮捕された容疑者の供述は?
8月21日、高槻少女殺害事件は、大きな動きを見せた。
大阪府警はこの日20時ごろ、平田奈津美さん(13)の死体遺棄容疑で、寝屋川市香里新町の職業不詳、山田浩二容疑者(45)を大阪市城東区内で逮捕した。
遺棄現場の駐車場や、周囲の道路に設置された防犯カメラ映像から、山田容疑者のものとみられる車を特定し、逮捕に至った。
一方、平田さんと事件当日の夜行動し、行方不明になっていた星野凌斗さん(12)の遺体が、19時35分ごろ、大阪府柏原市青谷の山中で見つかった。
高槻少女殺害事件のこれまでの動きについては、先日書いた記事を参照されたい。
22日未明の現在、伝わっている山田容疑者の供述は、以下のようにまとめられる。
・事件当日の夜、平田さんの遺体発見現場となった駐車場に行った。
・死体遺棄容疑は否認。
・助手席に同乗者を乗せていた。
・その同乗者が平田さんを殺害した。
・同乗者の身元は言えない。
星野さんに関する供述の情報は伝わっていない。
別の人物の可能性を示唆していることもあり、現段階では、山田容疑者が2人の殺人の犯人であるとは断定できないものの、山田容疑者の供述が事件の全容の解明の「キー」になることは疑いようがない。
近く、殺人容疑での被疑者逮捕も期待できそうだ。
犯罪者は人格破綻者? ハンナ・アーレントの言う「悪の陳腐さ」とは何か?
悲惨な事件があると、多くの人は、「被疑者は自分とは違う」と思うのではないでしょうか?
もちろん、彼らとあなたは違います。
あなたは今まで犯罪を犯してこなかった善良な一般人ですし、彼らは恐ろしい犯罪を犯しました。
彼らには罪の責任があり、あなたにはない。
彼らは裁かれるべきで、あなたは何も裁かれるいわれはなく、彼らを糾弾する権利がある。
当たり前のことです。
しかし、例えば、「犯罪者は自分とは全く別の生き物のようなもので、まっとうな人格をもった人間ではない」という風に考えているのだとしたら、少し考え直す余地があるかもしれません。
ハンナ・アーレント( Hannah Arendt 1906年10月14日~1975年12月4日)というドイツ系ユダヤ人の政治思想家がいます。
彼女の著書『イェルサレムのアイヒマン』は、副題を「悪の陳腐さについての報告」といい、「悪がいかに陳腐なものであるか」ということを論述しています。
第二次世界大戦中、ナチスのホロコーストに協力し、ユダヤ人移送に携わっていたアドルフ・アイヒマンは、戦後アルゼンチンで逃亡生活を送っていましたが、1961年、イスラエルの秘密警察に捕まり、イェルサレムで裁判にかけられます。
いわゆる、「アイヒマン裁判」です。
この裁判に興味をもったアーレントは、雑誌『ザ・ニューヨーカーズ』の特派員として、イェルサレムに赴き裁判を傍聴。
その時に感じたことをまとめたのが、1963年に発表した前掲書『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』です。
この裁判で彼女が見たアイヒマンは、悪の権化でも何でもありませんでした。
いわゆる一般的な、「ふつうの」人だったのです。
また、それでいて、アイヒマンはナチに「強制的に」ホロコーストに協力されていたわけでもありません。
彼はただ職務に忠実な「働き者」であって、ホロコーストに対しては何の感慨も抱かず、上の命令に従って、有能に働いていたにすぎません。
イスラエルの裁判所はアイヒマンを強く糾弾し、彼を死刑にします。
もちろん、アーレントは彼が死刑に値すること自体に対しては何も言及していません。
彼がしたことは紛れもない「事実」であり、裁かれねばならないのは明白でした。
しかし、彼を「極悪人」として裁いたイスラエルの考え方に、彼女は批判を加えます。
そもそも、悪というものは陳腐なものであり、よほど気を付けて生きていなければ、人は悪を犯すものだ。
全体主義の中では恐ろしいほどの無思想性が生まれる。
アイヒマンの罪は、その無思想性に抗おうとせず、「考える」ことをやめ、ナチスに服従=ナチスを支持したことにある。
彼が死ななければならない理由は、「考え」なかったことであって、彼が生まれながらの極悪人であったわけではない。
と、こういうことを、アーレントは言ったのでした。
さて、翻って、現代の犯罪者はどうでしょうか。
確かに、まるで生まれながらの極悪人、いわゆるサイコパスと呼ばれるような人たちは一定数存在するように見えます。
しかし、当たり前のことですが、犯罪者が全員サイコパスである、ということにはなりません。
また、自分たちの「サイコパス性」がゼロだとも、言いきれません。
人と人の間には、どうしてもつながらない場所がありますが、つながる場所も確かにあるのです。
私たちは、「自分と犯罪者が似ている」などとは考えたがらないものです。
そう考えることに、自分が堕落する危険性や、彼の責任を問えなくなるのではないかという不安を感じるからでしょう。
しかし、犯罪者をまるで別の生き物扱いすることは、むしろ、アイヒマンのような「考えない」無思想性を生み出す危険性がありそうです。
自分と犯罪者を比べ、「彼と自分は似ている。自分も、彼と同じ状況に置かれ、一歩間違えれば、彼と同じように犯罪を犯していたかもしれない。しかし、やはり彼と私は違う。彼は考えない。私は考える。何が正しいことなのか、自分で考える。だから、彼と同じように犯罪は犯さない」。
こう言えることの方が、「陳腐な悪」を回避し、「陳腐でない正義」に就く余地は大きいのではないでしょうか。
武田鉄矢の名演「お前に人権なんかねえ!」も、似たようなことを言っているように思えます。
迫力の演技です。
是非ご覧ください。
佐野研二郎氏の「盗作」問題、今後の行方は?
2015年7月24日に発表された、佐野研二郎氏(43)デザインの、2020年東京五輪のエンブレム。
スペインのデザイン事務所「ヘイ・スタジオ」が手掛けたデザインや、ベルギー・リエージュ劇場のロゴとの類似性が指摘されている。
8月5日、佐野氏は記者会見を開き、関連性を全否定。
しかし、盗作疑惑は氏の他の作品にもおよび、13日にはサントリーの「オールフリー」キャンペーンの景品としてデザインしたトートバッグ8種類について、「模倣の可能性がある」と認め、氏からサントリー側に、賞品から取り下げるよう依頼する事態となった。ただし、これらの作品の制作そのものに氏は関わっていない、と佐野氏は述べており、「部下のしたこと」と責任をのらりくらりと逃れようとしている意図は明らかだ。
一方、リエージュ劇場のロゴを制作したデザイナー、オリビエ・ドビ氏は、14日、著作権を侵害されたとして、IOC(国際オリンピック委員会)を相手取り、リエージュの民事裁判所に提訴したと発表した。
問題が大きくなる中、17日には、佐野氏がデザインした名古屋市千草区の東山動物園のロゴが、コスタリカの国立博物館のロゴと酷似しているという指摘を受け、同園がロゴを共同提案した都内の会社に調査を依頼。
問題は収まる気配がない。
オリンピック委員会も、佐野氏も、依然五輪のエンブレムについては盗作を全否定しているが、このまま疑惑が増せば、態度を撤回する可能性も十分あり得る。
オリンピック関連で言えば、新国立競技場の問題も最終的には撤回された。世論の力は大きい。
さて、問題はもし、今後オリンピック委員会が佐野氏の「盗作」を認めた場合、どうなるか、ということだ。
おそらく、新国立競技場と同様に、急ピッチで公正な審査体制を整え、新しいデザインを公募することになるだろう。
twitter上では既に、数人のデザイナー(umegrafix - 梅野隆児氏など)がオリジナルのエンブレム案を提出している。
もっとも、今のところは「お遊び」程度でしかないが、今後、盗作疑惑が無視できないような状態になってくれば、彼らの案が採用される可能性も十分にあり得るだろう。
佐野氏は2013年毎日デザイン賞、亀倉雄策賞などを受賞した、「実績ある」デザイナーだ。
その「実績」が、実は全て盗作であったなどとは、なかなか考えたくないが、新国立競技場と同じく、不正や不都合があれば、早々に対処するのがコモンセンスというものだろう。
終戦後、多くの日本人の共感を得た『堕落論』とは?
今年は終戦後70周年ということで、テレビや新聞でも多くの特集が組まれました。
今でこそ、「戦争は悲劇」であったという認識が一般的で、日本国憲法前文にもあるように、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」して行こう、という風に多くの人が考えているようですが、戦後直後の日本人は戦争をどうとらえていたのでしょうか?
敗戦後、多くの日本人の共感を得た『堕落論』という評論があります。
『桜の森の満開の下』・『白痴』などの作品で知られる作家、坂口安吾(1906年10月20日~1955年2月17日)が敗戦間もない1946年4月に書いたものです。
これを読み解くことで、1941年12月8日に始まり、1945年8月15日に終わった、太平洋戦争とその時代を、日本人がどのように生きていたのかを考えることができます。
安吾は冒頭から、敗戦後の日本人が堕落していることを説明します。
多くの若者があの戦争で花と散ったが、同じ若者が闇屋となる。戦争で夫君を亡くした未亡人も、そのうち位牌に額づくのも事務的になり、新しい面影を胸に宿すだろう。戦争を率いた将軍たちは切腹もしないで、轡を並べて法廷に引かれ、生に恋々としている。戦争中は、武士道まがいの理想論を掲げ、天皇を賛美し、大政翼賛をしてきた彼らが、このようなさまになったのは壮観な人間図である。
しかし、安吾は、日本人の堕落を批判したいのではありません。
堕落というのは、人間的な、平凡なものであって、何もおかしいことではない。
人間は人間である限り堕落するものだし、敗戦を経験した日本人はむしろ、しっかりと堕落して、人間というものを見つめなければならない、と安吾はいう訳です。
戦争中の自分自身を振り返ると、自分は戦争の破壊という美に魅了されていて、考えることをやめてしまっていた。それは素晴らしい理想郷であったが、堕落の平凡さに比べると、なんと見劣りするものか。
武士道も天皇に代表される、理想論や絶対的な価値観は、敗戦によって滅んだ。日本人は堕落した。そして堕落する。しかし人間は弱過ぎて、堕落し続けることもできない。どこかで秩序や絶対的なものを必要とするのが人間だ。日本人は今後、しっかり堕落して、自分自身の武士道、自分自身の天皇を作り上げなければならない。それこそが、日本の復興である。政治での解決なんて上面だけのものだ。
と、こういう論旨です。
日本人は敗戦後、堕落出来たのでしょうか?
そして、その中から自分自身を見つけ出すことができたのでしょうか?
今、私たちはしっかりと「考え」られているでしょうか?
「孤独」というツールを使いこなす8つの条件
昨年ベストセラーになった、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」。
心理学者アルフレッド・アドラーの心理学を一般向けに書いた本で、人間が自由であるためには「嫌われる勇気」が必要だと説きます。
私たちは人生の多くの場面で、人に嫌われまいとし、人とつながろうとします。
それ自体は、人間として普通のことですが、それが過剰になると、人の顔色ばかりうかがって疲れてしまいます。
現代社会では、余りにも他人と繋がりやすく、疲れてしまいがち。
それゆえに現代人は孤独を必要としている、といえるのかもしれません。
実際、旧来の働き方を捨て、ノマッドライフという、ある種孤独な、働き方を選ぶ人も増えているみたいですね。
臨床心理士の諸富祥彦さんが2001年に書いた「孤独であるためのレッスン」は、14年も前に書かれた本ながら、示唆に富んでいます。
諸富さんによると、孤独とは、ただ孤立しているだけではだめ(むしろ、孤立していては孤独にはなれない!)で、孤独が積極的な意味をもつためには8つの条件が必要だということです。
ご紹介しましょう。
1. 「わかり合えない人とは、わかり合えないままでいい」と認める勇気を持て。
アドラー心理学で言えば、「課題の分離」ということですね。
承認欲求を否定しましょう、ということです。
でも言うは易しで、なかなかこれができない人もいるはずですね。
承認欲求を否定できないのはなぜかというと、これは次の2以降に関係してきます。
2. 人間関係についての「歪んだ思い込みやこだわり」に気付け。
要するに、承認欲求を捨てられない人は、「人に認められないと何か恐ろしいことが起こる」という偏った思い込みをもっているわけです。
まずは、これが全く irrational belief = 非合理的な信念であることに気付きましょう。
嫌われる勇気が持てない人は、視野が狭くなっていることが多いです。
アドラー心理学で言えば、「より大きな共同体の声を聞け」。
自分が思い込んでいることは、実は本当に小さな共同体の中での常識でしかありません。
もっとふつうのコモンセンスを見つけましょう。
3. 自分の人生で「ほんとうに大切な何か」を見つけよ。
承認欲求をもっている人は、価値判断を自己本位ではなく他者本位にしていることが多いようです。
自分の中での優先順位をしっかりと持つことで、承認欲求が不要であることに気づくでしょう。
4. 「自分は間もなく死ぬ」という厳然たる事実を見つめよ。
優先順位をしっかり持っても、もし時間が無限にあるなら、いくらでも先延ばしにできてしまいます。
でも事実は違う。
人生は高々100年くらいなものです。
宇宙の歴史に比べれば短いものです。
ハイデガーは、この「間もなく死ぬ」という覚悟を先駆的覚悟性と呼びました。
この先駆的覚悟性をもつことで、私たちは自分の中の大事なものに気づけるのではないでしょうか。
「いま、ここ」を生きなさい、ということですね。
5. 「たった一つの人生という作品」をどうつくるか、絶えず構想しながら生きよ。
私たちは、世界の中心ではありませんが、人生の主役です。
常にイマジネーションとクリエイティビティをもたなければ、孤独とは付き合っていられません。
6. ソーシャルスキルを身につけよ。他人の話を聴き、他人を認めよ。
「孤独」と言っておきながら、結局ソーシャルスキルかと、怒り出す人もいるかもしれません。
しかし、現実社会で「孤立」しては生きていけないのは事実です。
たとえ、沢山の人の中に居ようとも、心が独立していれば、それは「孤独」なのです。
むしろ、余計な人間関係に巻き込まれないためにも、是非ともこちらから気を配っていきましょう。
7. 「この人だけは私を見捨てない。どこかで見守ってくれている」。そう思える人を見つけよ。
「孤独」になるのに、こんな条件は少し変わっていますが、これは6と関係している話です。
孤独になろうとするならば、孤立しないのが前提なのです。
心を開ける友達は沢山は不要です。
出会う人で会う人、全員にいい顔をする必要はありません。
しかし、一人でもそういう友達をもつことができれば、人はほんとうの「孤独」を手に入れることができるのです。
8. 自分だけは自分の味方であれ。「自分を見守るまなざし」を自分の中に育め。
「自分を見守るまなざし」とは、心理学用語で"Larger I"と呼ばれる存在です。
7で得た友人が、内在化したものと言えます。
以上、孤独のための8つの条件。
どうでしたでしょうか?
人の目を気にしがちな現代社会、たまには人との付き合いから離れて、自分のことを見つめ直してみてはどうでしょうか?
今回はかいつまんで紹介しましたが、元ネタの「孤独であるためのレッスン」はとってもいい本なので、是非読んでくださいね!
バンコクテロの犯行声明がいまだ発表されない理由
2015年8月17日19時ごろ(現地時間)、タイの首都バンコク中心部にあるヒンズー教寺院エラワン廟付近のラチャプラソン交差点で、オートバイに仕掛けられた爆弾が爆発した。
現在分かっているだけで死者20人、負傷者125人を数える。
負傷者の中には東京海上日動火災現地法人に出向中の安藤紘太さん(31)も含まれ、重体と伝わっている。
一方、18日13時半ごろ(現地時間)には、市内を流れるチャオプラヤ川のタクシン橋付近の川船発着場で再び爆発があった。
怪我人はいない。
2つの爆発事件で使われた爆弾は、いずれもTNT火薬をパイプにつめたタイプの爆弾 = 即席爆破装置(IED)で、現地警察は連続テロとの見方を示している。
また、17日の爆発事件現場付近の防犯カメラに写りこんでいた、不審な動きをする黄色いシャツを着た男の写真を公開。
この男を実行犯とみて、捜査に当たっている。
タイは宗教的には、人口の94%が仏教徒で、5%がイスラム教徒と圧倒的に仏教徒が多い。
政治的には、民主政権と軍事政権が時を置いて交代してきた歴史をもつ。
1992年から民主政権が続いたが、2006年タクシン政権時代に軍部がクーデタをおこし、軍事政権に戻った。タクシン派は2011年の総選挙で政権を奪還したが、2014年5月には再び軍部がクーデタをおこし、軍事政権に戻り、プラユット暫定首相が実権を握っている。現在は比較的安定した状態であったという。
ふつうのテロ事件の場合、犯行グループが何らかの声明が通例であるが、今回の爆発事件はいまだ犯行声明が発表されていない。
考えられるのは2つの可能性だ。
1つは、イスラム教過激派「イスラム国」のウェブ戦略などに影響を受けた現地の若者が起こしたホームグロウン型のテロの可能性。実行犯が稚拙であって、犯行声明を出すに至っていない。
もう1つは、実はこれはテロではなく、タクシン派や、タイの少数民族ウイグル族の内部抗争である可能性。この場合は、犯行声明を出す必要がない。
18日には、プラユット暫定首相が内閣改造の新閣僚名簿をプミポン国王に提出した。
政治の方向性に不満をもった人物の仕業かもしれないが、いずれも憶測に過ぎない。
現地警察の捜査を待とう。
知らないことが多すぎる
世の中には知らないことが多過ぎるようです。
何でも知っているようなふりをする人もいますが、何でも知れるわけがありません。
パソコンがどうやって動いているか知っていますか?
アンリ・エーというフランスの精神医学者は何を考えていましたか?
歴史上最初に道具を使った人類は誰?
昨日見た夢の意味は?
10年後世界はどうなっている?
「ある」とはどういうこと?
東芝はなぜ不適切会計をしたの?
Navie-Stokesの方程式の一般解は?
調べればすぐに答えが分かる物もあれば、未解決の問題もあります。
私たちは「知らない」から始まって、「知りたい」と思い、勉強するのですが、「全てを知ることはできない」ということに打ちのめされます。
賢いことや、物知りなことには、一体どれくらいの意味があるのでしょうね。
それでも、「知りたい」と思えるかが、成長できるかできないかの分かれ目なのかもしれません。
こんな歌を見つけました。
また一つ、新しいことを知りました。